運営者情報_まつろむ流転職の考え方

運営者情報

事務所名:社会保険労務士法人愛知労務

住所:愛知県豊川市南大通り5丁目41-1 スカイシティ・イシハラ201号

メール:maturom@mtj.biglobe.ne.jp

電話:0533-83-6612

代表者:代表社員 松井 宝史

管理人:松井 宝史(社会保険労務士 1997年12月登録)

顧問先の会社の労務管理を得意としています。

また労務トラブルの解決にも注力しています。

自分自身、転職を4回も繰り返してきました。

平成10年ごろからホームページを作るのが趣味となっています。

ホームページ作成は、かれこれ24年ほど継続しています。

ワードプレスは苦手なので、ドリームウイーバーのソフトを使ってページを作成しています。

適応障害で休職しているかたはこのページを参照してください。

休職中の転職活動のすすめ

職業紹介責任者講習受講

令和4年4月11日、愛知県において、職業紹介責任者講習を受講しました。

番号 005-220411231-003

私の職歴

私が大学4年生の新学期のころは、就職活動について何も考えていませんでした。

就職指導室はありましたが、積極的に学生に指導をしていませんでした。

まずは卒論として考えていたドイツ文学のフランツ・カフカの「変身」について、どのように書いていこうかと悩んでいました。

文学サークルの同人誌「阿羅野」という雑誌に短編小説を書いていたころでもあります。

小説を書いている者もいれば、短歌を書いている者もおり、毎週末には誰かの下宿に集まってお酒を飲んで、文学について語っていただけの集まりでもありました。

就職活動については、ゼミの教授が「そろそろ活動をしなさい」という発言で、6月ごろから就職指導室に貼りだされている求人票を見に行っていました。

インターネットもまだない時代(昭和51年頃)なので、求人票をノートに書き出して、応募書類(履歴書)を作成し、各社に郵送にて応募していました。

就職希望会社は、旅行会社とホテルを狙っていました。

ドイツ語がすごくできるわけでもないが、他の人よりはできるので、あこがれも含めてねらっていました。

東京や大阪の会社にも応募して、面接にも参加しましたが、ことごとく断られてしまいました。

今になって言えることですが、その業界についてもっと勉強しなければならないことです。

きっと面接においても、どうしてもその会社の仕事をやりたいという熱意が薄かったと思います。

その会社のことを、今ではインターネットがあるので、会社の求人ページや就職四季報、有価証券報告書などで情報を取っていきましょう。

私の場合は、12月になっても就職先が決まらず、卒業はできるが就職先は無いという状態になりそうでした。

父は、私が高校1年生の時に病気で亡くなっていたので、母親が生計を立てていました。

それほど裕福な家庭ではないので、何としてでも就職して働かなければと思っていました。

年を越して正月を迎えても就職先は決まらず、その時に学部の別の教授がドイツの貿易会社のハパックロイド名古屋支店の就職の話をくれました。

わずかな望みを頼りに面接に臨んだのですが、この会社も内定を得ることはできませんでした。

ドイツ文学科というのが、実学からはほど遠く離れているのが、内定を得るのができなかった原因かなとその時は思いました。

捨てる神あれば、拾う神ありで、1月中旬に縁故で1社内定を得ることができました。

紹介してくれた会社の総務課長の自宅まで、母親と一緒にお礼に行ってきました。

高校が同じということで、拾ってくれることになりました。

所属は、総務部預かりということで、4月には入社することができました。

高校生の時に、大学は実学である法学部や経済学部に入学していれば、こんなことにならなかったと思っています。

でも、今の仕事においては、この「文章を作る」という点で、文学部がとても役にたっているのです。

本当に長い目でみれば、文学部に入っておいてよかったと思っています。

自分にあう仕事は何か

今まで仕事をしてきて、自分に合う仕事は何かがやっと分かってきました。

私は文学部出身なので、理系の人とは違う仕事内容となります。

最初に就職した会社は、製造業でした。

木材を加工して、テレビキャビネットや家具を作る会社です。

私の所属は、総務部で教育係の仕事です。

最初の3か月は現場実習です。

営業の部署以外は、全部の部署に研修ということで回っていきました。

立ち仕事の現場もあり、初日はきつかったですが、2日目、3日目となると慣れてきました。

周りの人とも仲良くなれて、最初の3か月の実習は、会社のことを知るのにとても役に立ちました。

40歳で3回目の転職

40歳で3回目の転職をすることにしました。

比較的安定した会社の仕事を辞めて、まったく新しい損害保険の販売をする仕事に就く決意をしました。

会社を辞める理由はいろいろあると思います。

私にとって一番大きな理由は、1年前に母親が交通事故で死亡したことだと思っています。

何か新しい仕事をしたいとここ2年ほど思っていて、自分の力で損害保険のお客様を獲得し、3年後には代理店として独立できる道を選びました。

清水の舞台から飛び降りる気持ちということでした。

人生には必ず転機が訪れます。

その転機をチャンスに変えるかは、自分次第だと思っていました。

一つの会社にしがみつくのもいいし、他の会社に転職するのも、その人本人の特性に合った形ですればいいのです。

損害保険代理店の研修制度は、とてもユニークなものでしたが、ノルマはきつかったです。

今までの工場勤務と違い、自分で外に出てお客様を獲得していく仕事です。

形にはまらない仕事内容なので、最初はどのようにすればいいか戸惑いました。

毎月1回、支店の研修生会議があり、直近1か月の成績が発表されました。

成績のいい月もあれば、あまりぱっとしない成績の月もありました。

午前中の会議が終わると、お昼を気の合った研修生同士で食べるのが楽しみでした。

年齢もまちまちなのですが、同期の仲間という感じでした。

最初の1年間は、3か月、6か月、9か月、12か月(1年)という節目ごとにノルマがあり、その数字を達成しないと退職となりました。

最初の3か月のノルマが達成できたので、同じ時期に入社した研修生が集まる会議(合宿)が八王子市で開催されました。

その時、生まれて初めて八王子市に行きました。

新横浜駅から横浜線で北上し、八牡牛駅の南口で降りた時は、大きな街だと思いました。

八王子の研修は、住友海上の事務処理センターの上にありました。

名古屋以外は、大きな街に行ったことがありませんでしたので、新鮮な気持ちでした。

今までの工場勤務と違い、時間で縛られる勤務ではありません。

6か月、9か月、12か月(1年)のノルマもなんとか達成でき、今度は1年目の研修がありました。

最初は神戸の研修所での予定でしたが、阪神・淡路大震災のために、千葉の研修所に場所を移しての研修となりました。

同じ同期で1年目の研修に参加したのは、3か月目の研修の時よりも人数がかなり減っていました。

損害保険代理店になるのも、なかなか厳しいものだと実感しました。

3年目の終わりに、無事独立できることが決まりました。

私がいた豊橋支社では、私を入れて3人が代理店として独立できることになりました。

支店長が、地域の大型代理店の訪問をおぜん立てしてくれました。

一宮市にある特級代理店を訪問し、このような代理店を目指してください、と言われました。

それから1か月経った日に中日新聞で社会保険労務士の受験講座の案内がありました。

このまま保険代理店としてやっていくには、挙績(売上)が多くありませんでした。

子供2人もまだ中学生と小学生でしたので、このままではじり貧だと思っていました。

営業で訪問する先も先細りで、新規開拓も手詰まりを感じていました。

中日新聞の社会保険労務士の受験講座の案内の部分だけを切り取って、ポケットにしまっていました。

結局、社会保険労務士の試験を受けることとしました。

試験講座は、12月からスタートとなっていました。

ちょうど、代理店として独立する1か月前です。

その時は、損害保険代理店の仕事をしながら、勉強をすればなんとかなると思っていました。

損害保険代理店は、平成9年1月から無事なることができました。

研修生の時は、朝必ず支社に行く必要がありましたが、独立してからはその義務もなくなりました。

社会保険労務士の試験勉強をするにはもってこいの状況となりました。

受験講座のテキストを読みながら、単元ごとの練習問題を解いていきました。

毎週、日曜日には名古屋まで通学講座を受けにいきました。

労働基準法とか労災保険法とかの1科目が終わるごとにミニテストが行われました。

それは、次の週に名前と得点の一覧が受講生全員に配られました。

成績順に並べて記載されていました。

常に5番以内に入っていたので、このまま勉強すれば合格するのではと思っていました。

会社には、まだ社会保険労務士の試験を受けることは伏せていました。

試験勉強も通常の授業をしっかり聞いて、大事な箇所は先生が指摘してくれるので、黄色の蛍光ペンでマーカーを引いてました。

一日中勉強をしていた日もありました。

また、1日何時間勉強をしたかも記録に取っていました。

多い日は、朝から晩まで12時間以上という日もありました。

損害保険代理店と社会保険労務士事務所のダブルワーク

しばらくの間、損害保険代理店と社会保険労務士事務所のダブルワークとなりました。

と言っても、社会保険労務士事務所の仕事は、まだお客様が1社も無いので、これから開拓です。

今までの損害保険代理店のお客様は、ほぼすべて個人のお客様です。

法人のお客様は、1社ぐらいです。

社会保険労務士事務所のメインのお客様とは、法人のお客様となっています。

法人(会社)の従業員の方の社会保険や雇用保険、労災保険の手続きがメインの業務です。

法人のお客様を獲得するノウハウも紹介ルートもありませんでした。

昔働いていた会社では、総務部でしたが、人事の仕事をしており、社会保険等の手続きはやったことがありませんでした。

まずは手続き実務を勉強しないといけない状態でした。

助成金の仕事が社会保険労務士としての初仕事

社会保険労務士としての最初の仕事は、定年延長の助成金の申請でした。

同じ時期に損害保険の代理店として独立した友人の紹介で、1社申請をすることになりました。

社会保険労務士の仲間もまだ誰もいない状態でしたので、どのように手続きをすればいいか相談する人もいませんでした。

就業規則を変更するのですが、どのようにすればいいかも分からりませんでした。

社会保険労務士事務所を始めた12月一杯かけて申請書を作成することができました。

会社の商業登記簿謄本を取る方法も知らなかったのです。

定年延長の助成金の申請は、ハローワーク経由で提出しました。

そのハローワークの担当者は、前の会社の総務の時代からよく知っている方でした。

何度も何度もその方に確認をさせていただき、申請までこぎつけることができました。

人と人とのご縁というものは大事だとその時思いました。

最初の顧問先となった会社は

最初の顧問先となった会社は、損害保険の研修生時代の友人が新規開業した会社でした。

自動車の板金塗装の会社を設立し、その会社の労働保険の仕事をやらせてもらいました。

就業規則作成の初仕事は、損害保険の研修生時代の指導社員の紹介で弁護士事務所のお客様のところでした。

そのお客様の就業規則見直しがスタートとなりました。

少しずつですが、人と人との縁を頼って仕事が入るようになりました。

税理士事務所とのお付き合いも、板金塗装の会社をお客様にしている税理士先生をご紹介していただきました。

その税理士先生とは、25年の長きに渡ってお付き合いさせていただいています。

損害保険代理店と社会保険労務士事務所の売り上げが同じ額になったのは、3年目でした。

4年目からは、社会保険労務士事務所の売り上げが多くなり、5年目の夏に、損害保険代理店の仕事が会社からの指示で終了となりました。

現在は、交通事故の労災保険申請などの業務もやっていますが、自動車保険の知識はとても役にたっています。

昔やった仕事の知識などが今でも役に立っていることを考えると、いくつも転職したことが良かったと感謝しています。

社会保険労務士事務所として、初めて職員が雇えたのは、開業して5年目でした。

今度は、行政書士事務所とのダブルワーク

社会保険労務士事務所の仕事も順調に増えていきましたが、伸びが鈍化してきました。

そこで、行政書士の試験も受けて、行政書士事務所もやっていこうと考えました。

行政書士試験は、社会保険労務士試験を受けた年に、8月から勉強をして受験をしましたが、勉強期間が短かったので不合格となってしまいました。

あれから4年たちましたが、再チャレンジをすることにしました。

社会保険労務士事務所の仕事をしながらの受験です。

少しはお金を使ってということで、行政書士受験校の答案練習には、毎週参加しました。

最初の会社は、6か月で退社

大学を卒業して最初に入社した会社は、6か月で退職することになってしまいました。

会社に行っても何もやる仕事が無い状態でした。

追い出し部屋に送られて何もやることのない仕事をやっている人の気持ちです。

無為な生活というのは、身体に不調がきます。

お腹の調子が悪くなり、私は胃腸科の病院を受診することになりました。

どんなに検査をしても悪いところは無いのです。

それはメンタルから来ていたのは、私も分かっていました。

その頃は、会社の寮生活をしていたので、上司に自宅通勤を願い出ましたが、聞き入れてくれませんでした。

1か月ほど、体調の悪い状態が続いたので、会社を辞める決意をしました。

追い出し部屋に送られた人の気持ちがよく分かります。

上司である総務部長の部屋に行って、退職の意向を伝えました。

余剰人員である私は、引き継ぎをする仕事もないので、その場であっさりと退職を受理してくれました。

そして、その足で職場の人に退職の挨拶をして、会社の寮に戻りました。

寮にある私の荷物を取りまとめて、寮の管理人に挨拶をして、自宅に戻りました。

心はほっとしましたが、明日から何をすればいいかと考えた時に不安に襲われました。

社会人として1年も経たないうちに会社を辞めてしまったので、これからどうしようかと迷いました。

会社から雇用保険の離職票が郵送されてきたので、地元の公共職業安定所(ハローワーク)まで求職の申込みに行きました。

初めて公共職業安定所(ハローワーク)と関係を持ちました。

働く気持ちがないと雇用保険の給付がもらえないと、公共職業安定所(ハローワーク)の担当者に言われました。

どのような仕事に就けばいいか分からないし、働く意欲も湧かない状態でした。

職業生活が長ければ、ある程度自分がどんな仕事に向いているかが分かりますが、わずか6か月程度では何も分かりません。

現在では、公共職業安定所(ハローワーク)でキャリアコンサルティングをしてくれますが、その頃はそのようなサービスはありませんでした。

公共職業安定所(ハローワーク)で、営業の仕事を紹介してくれました。

自宅から車で15分くらいの所だったので、面接に行ってみました。

会社の担当者がいろいろ仕事の内容や条件面を説明してくれましたが、自分にはできそうもないと思って断ってしまいました。

自動車のディーラーの営業の仕事もありましたが、それもできそうもないということで断りました。

その当時は、もう一度社会に復帰する心のエネルギーが無かったと思います。

4週間に1回、公共職業安定所(ハローワーク)に行って、失業の認定を受けていました。

90日分しか雇用保険の給付はもらえませんので、年を越せば給付は終了となってしまいます。

羅針盤の無い船が大海を漂うように、どこに行く当てもありませんでした。

何でもいいから働いてお金を稼ぐという意欲もほとんどありませんでした。

会社を辞めて無職の期間が長くなると、次の就職先を探す気力が失われていきます。

無職という「ブランク」は、できるだけ短くするようにしてください。

その頃は、まだ第二新卒などという言葉はありませんでした。

何もせず、家にいる息子を見かねて、母親はもう一度大学に行って、教職の勉強をしてみたらと声をかけてくれました。

何もせず家にいたのは、自閉スペクトラム症の人と同じ症状だったと思います。

そのような状態を抜け出すのは、とてもエネルギーがいります。

会社を退職して、次の転職先を探すときは、できるだけ前の会社に在籍している間にしておきましょう。

もし、やむを得ず退職してから次の会社を探す時は、できるだけ早く次で働くことを優先しましょう。

無職の泥沼は、はい出るのに多くのエネルギーがいることを実感しました。

本当に自分が何をやればいいかなんてのは、自分では分からないものです。

まずは転職先の会社を80%良ければ、就職してみましょう。

そして、その会社でまずは3か月頑張ってみることをお勧めします。

大企業に就職したことはないので、私の転職についての考え方は、中堅どころの会社での経験をかたっています。

とにかく、働きながら自分が何をしたいかを走りながら考えることをお勧めします。

私のつたない転職経験は、参考程度に読んでいただければ幸いです。

1万時間の法則は参考になります

社会保険労務士の仕事も足掛け26年やってきました。

社会保険や雇用保険、労災保険の手続きも最初は自分でやっていました。

今では、他の人がやっていますので、私としてはその手続きの仕組みしか分かりません。

昔読んだ本で「1万時間の法則」というものがあると知りました。

現在は、障害年金の申請を多く手掛けています。

労災保険の申請も、相談だけやって、申請は他の社会保険労務士の先生がやっています。

傷害の障害申請を多く手掛けてきましたので、骨折などの場合は、障害等級が何級になりそうかおおよそ分かるようになりました。

この業務は、通算すれば1万時間やっていると思っています。

障害年金の申請は、まだそのレベルまで到達していません。

これから1万時間になるように頑張っていきたいと思っています。

また、たくさん申請して、いろいろなケースを手掛けることが重要だと思っています。

そのためには、ホームページ作成と紹介ルートの開拓が必要です。

一つずつ着実に申請をして、お客様の評価を得ることが大切です。

お相撲さんが「明日の取り組みを頑張る」とインタビューで答えるように、目の前の仕事をしっかりやっていきます。

三笠山を買って食べたのはいつだったか?

奈良に行って、三笠山を買って食べたのはいつだったのでしょうか?

社会保険労務士として、仕事をしだした頃は、よく外部研修に出かけました。

知識を習得するには、本を買って読むことと、外部研修に出かけて新しい情報を入手することが大事です。

いつもは県内の外部研修に出ることが多いのですが、三重県の研修に出たことがあります。

その時の研修は、私が3年前に受けたことがある講師がお話をしてくれました。

着席は場所が決まっており、私は比較的前の席に座ることになりました。

すでに、その講師の先生のセミナーは受けたことがあったので、復習の意味で参加しました。

私は時計を見ながらそわそわしていました。

研修が終わった後に、友人と奈良に旅行に行くことを計画していました。

三重県の津は、JRと近鉄の駅が並んであります。

近鉄特急は、2名分予約が入れてありました。

研修会場は、津駅の前にあるホテルの会議室です。

講師の先生のお話が終わった後に、司会の方が次の予定を話されていましたが、私は近鉄特急の時刻が気になっていました。

腕時計を見て、会場を出ることにしました。

友人と一緒に奈良に行くことにしていましたが、その方も遅れて駅まで来ました。

幸いなことに、同じ近鉄特急に乗り込むことができました。

久しぶりの近鉄奈良駅に着きました。

津駅を乗ったのが午後4時を回っていましたので、晩秋の近鉄奈良駅に着いた時は、街のあかりが灯っていました。

翌日は、お目当ての興福寺を東大寺、若草山、春日大社を参拝しました。

三笠山は別名若草山といい、標高は342メートルとなっています。

もっこりとした山で、芝生が生い茂っていて鹿が放し飼いとなっていました。

近鉄奈良駅の近くにあるお土産屋で三笠山というどら焼きを買うのを楽しみにしていました。

帰りの近鉄特急の車中で三笠山を食べて、ご満悦でした。

父親の仕事をまねるか?

子供は親の仕事を小さい時から見て育ちます。

仕事の内容は分かりませんが、どこの会社に行っていて、何という仕事をしているかは知っています。

日常生活においても、何時ごろ家を出て行き、何時ごろ帰ってくるかも知っています。

休みの日は、子供と遊んでくれるとか、何をして過ごしているかもおぼろげながら知っています。

物心ついた頃の私は、父親が営業の仕事をしていたのをおぼろげながら覚えています。

生活画報などの雑誌や子供向けの本などをオートバイで各家庭を訪問して販売をしていました。

それよりも前の仕事は、昔、母親や叔母から聞いて、印刷会社に勤めていたことを知りました。

父親の家庭は、昔、印刷機を使って印刷の仕事を細々とやっていました。

父親の3人の兄たちもやはり印刷会社で働いていました。

父親は、いつも会社勤めは長くは続かず、名古屋の印刷会社に勤めたり、豊橋の印刷会社に勤めたりしていました。

転職を何回も繰り返した私にとっては、父親がお手本だと思っています。

母親も私が何度も転職したことは、そう苦にはしていませんでした。

父の営業の仕事は、2年ほどで辞めてしまいました。

そういえば、蛇の目ミシンの訪問販売の仕事もしていました。

この仕事は、1年ぐらいしか続きませんでした。

朝、オートバイで営業に出かけて行き、父親は夕方帰ってきていました。

私も20代でルート営業をしましたが、1年ぐらいで転職をしてしまいました。

父親は、39歳で病気で亡くなりましたが、2年前ぐらいから大企業の守衛さんの仕事をしていました。

昼勤と夜勤が交替にある勤務形態なので、夜勤の時は、別室で寝ていました。

いつも思うことですが、交替勤務の方は昼の睡眠と夜の睡眠のリズムを規則正しく取るのが大事です。

交替勤務のある仕事に就く予定の人は、この睡眠についてよく考えてください。

現在の社会保険労務士の仕事は、お客様である会社からいかに仕事を受注してくるかがポイントです。

なるべくお客様のお話を聞いて、ニーズを掘り出していくことが大事です。

こちらからこんなことができますという営業はしないことにしています。

お客様のニーズにあった仕事ができるように、仕事のメニューは幅を広げる努力をしています。

転職を考える時、親がやっていた仕事は、参考にした方がいいでしょう。

厚生労働省の助成金申請の仕事

社会保険労務士で一番最初に私がやった仕事は、厚生労働省の助成金の申請です。

助成金申請の仕事は、社会保険労務士として知っていなければならない社会保険、雇用保険の手続きとも通じるところがあります。

また、給与計算での残業の計算とか労働時間などの労働基準法の知識がいるのです。

つまり、社会保険労務士の業務のある程度の内容を理解していないとできない業務なのです。

助成金の種類は60種類以上ありますので、まずは自分の得意の助成金を手掛けていけばいいと思います。

1つずつやっていくと、他の助成金の申請のコツも分かってきます。

保険代理店の仕事は

製造業の会社を退職して、損害保険代理店の研修生となりました。

ルートセールスはやったことがありますが、自分で見込み客をさがして営業をするのは初めてでした。

損害保険の会社で最初に説明を受けたのは、知り合いをできるだけノートに書き出していくことでした。

親戚や同級生や前の会社の知り合いをひたすらノートに書き出していきました。

こんなことでお客様が取れるとは思っていませんでしたが、指導社員のいわれるままに進めました。

その後は、訪問する順番を決めて、訪問日程を決めていきました。

アポイントがあるわけではないので、こちらの都合で訪問となります。

自動車保険と火災保険の情報を入手するのが目的です。

損害保険は、基本1年契約なので、次の更改の時に、私に契約をしてもらうのが仕事となります。

訪問する人をたくさん書き出しましたが、この仕事をする前にすぐにお客さんになってくれると思っていた人がなかなかお客様になってくれませんでした。

逆に、見込みが薄いと思っていた人が、意外とすんなり契約をしてくれることもありました。

人は見かけによらないと気づきました。

同級生や前の会社の知人は、その方たちの仕事が終わってからの訪問となるので、夜や土日の活動となってしまいました。

法人の開拓の方法は教えてもらえませんでしたので、3年で独立した時は、99%は個人のお客様の契約となっていました。

損害保険や生命保険の営業を目指す人は、生活スタイルを夜型に」する必要があることを覚えておいてください。

住宅金融公庫で住宅ローンを借りていた人は、そこで火災保険を契約していました。

住宅金融公庫のローンを返し終わった後の火災保険が、研修生に情報が毎月回ってきました。

主幹事の損害保険ジャパンの研修生が一番最初に情報を持って訪問し、私のいた住友海上はその後に訪問となりました。

何度も個人宅を訪問して、火災保険の契約を結んでいく仕事となりますが、他社の研修生も同じことをやっています。

全然知らない人が相手なので、思うように契約にはいたりません。

研修生の3年間で10件ぐらいしか契約できませんでしたが、飛び込み訪問については耐性ができました。

研修生の3年間で良かったのは、同じ苦労をした仲間ができたことです。

総務の仕事はどうか

地元では中堅どころの製造業に就職し、総務の仕事をすることになりました。

大学を卒業して最初に入社した会社も総務の仕事でしたが、入社してすでに余剰人員でしたので、あまり仕事は身につきませんでした。

今度入社した会社は、補充採用でしたので、辞める予定の方の仕事を引き継いでいくことになりました。

2か月程引き継ぎをして、4月から上司の方が仕事を教えてくれることになりました。

大学は文学部なので労働基準法などの法律についてはこれから覚えていくことになりました。

学卒の求人もやっている会社でしたので、求人活動の上司と一緒にやっていきました。

地道に求人票と会社のパンフレットを持って、高校や大学などの就職課の訪問をやっていました。

総務部に在籍していましたが、私は社会保険と雇用保険の手続きはやったことがありませんでした。

労災保険は、労災事故が起きた時に、病院の手配、同行から労災保険申請書の作成はやっていました。

現在、社会保険労務士事務所として労災保険の申請をしていますが、一番得意な分野となっています。

ミノルタカメラ(現在のコニカミノルタ)がα7000という一眼レフの自動焦点カメラを発売した時に、私が勤めていた会社も交換レンズの製造をしていました。

どこのメーカーもまだ販売していない自動焦点一眼レフカメラは、とても売れたので、私がいた会社も猛烈に忙しくなりました。

現在では、働き方改革ということで労働時間の上限規制がありますが、そのころはそううるさくなかったです。

その当時は、本当に忙しい職場は、残業と休日出勤の山となっていました。

交換レンズの組み立てラインも何本も増設してその対応をしていました。

私の仕事は、求人活動をしていかに生産要員を確保するかでした。

生産要員の確保が至上命令でしたので、ハローワーク求人や新聞折り込み広告で応募者を募っていました。

毎朝、レンズ製造担当の取締役が総務に来て、人の催促をしに来ていました。

私は上司である課長の指示のもと、毎日ハローワークに出向くことになりました。

その時のハローワークの方の人脈が、社会保険労務士事務を開業した時に役に立ちました。

毎日、毎日、求人活動に没頭することになりました。

その他の仕事は、他の同僚がやることになりました。

機械でレンズを磨く仕事とそれを交換レンズとして組み立てる仕事をする人の大募集です。

折込広告やハローワーク求人で応募してくる人に、仕事内容や労働条件を説明し、実際に作業現場を見てもらうことを毎日毎日やっていました。

その年は、面接を毎日やっていて、さすがに疲れました。

中途入社用の賃金表があり、学歴別、年齢別の要素を加味したものを使っていました。
年に1回の昇給のための人事考課と年2回の賞与のための人事考課をその会社ではやっていました。

主に上司である課長が取りまとめをしていましたが、雑務は私もお手伝いをしていました。

人事考課については、現在の社会保険労務士事務所でもお客様に提案できる知識は持っています。

毎月の給与計算のチェックは、私の仕事でした。

これも現在の社会保険労務士事務所のメイン業務となっています。

昔の仕事が、現在でも役に立っているので、その時に経験をしておいて本当によかったです。

給与計算のための勤怠データは、女性従業員がやっており、私は印刷した給与明細のチェックをしていました。

関連会社を含めて500名ほどの給与計算のチェックです。

その経験があるので、給与計算の仕事は今でも好きです。

現在の社会保険労務士の事務所も積極的に給与計算の仕事を手掛けています。

給与計算の豆知識のページ

給与計算は、社会保険労務士事務所の経営基盤が安定する業務なのです。

就労移行支援事業所とのタイアップ

社会保険労務士事務所の仕事のメニューを広げようということで、最近は障害年金の申請を積極的に取り組んでいます。

労災保険の申請は、足掛け15年ほどやっており、一番得意な業務となっています。

顧問先の従業員の労災事故の手続きを始め、個人のお客様の労災保険の申請も実施しています。

大きなおけがをした方の障害年金の申請もやっていましたが、現在は、病気の障害年金の申請も手掛けています。

障害年金のホームページを作って、個人のお客様のお問合せをいただいています。

令和5年4月に入社した職員の紹介で、就労支援事業所にも出入りさせていただいています。

現在は、2社で利用者向けの障害年金セミナーを実施させていただき、利用者の障害年金の申請をお手伝いさせていただいています。

就労支援事業所の利用者は、就労継続事業A型やB型の利用者と比べて、障害の程度は比較的軽い方が多いので、障害年金の申請は認定が取りにくい傾向にあります。

精神疾患の障害年金の申請で一番困ることは、初診の証明をどうやって取るかです。

最近では、ご依頼をいただくと、初診の証明を取るために直接クリニックに電話で連絡をさせていただいております。

学卒求人に携わっての感想

前の会社で学卒求人に携わっていました。

高卒や大卒の求人票を学校に持参して求人を依頼する仕事です。

高卒求人については、現業職が中心になりますが、毎年1名ずつ来ていただいている学校は、就職担当の先生が1名ずつ送り出してくれていました。

学校の先輩が行っている会社は、やっぱり安心できるみたいです。

大卒求人については、地元に残りたい人にとっては、地元の中堅企業は魅力的のようです。

毎年、定期的に大学を訪問して、就職指導室やキャリアセンターに求人票を提出していました。

また、当社がどのような会社かもPRを地道に行っていました。

けっして、大企業ではないので、こまめに就職指導室に説明をすることが大事だと思っていました。

高卒の求人は、採用が決まると、そのことの通知書を持って、各高校を訪問し、そこ学校とのパイプを太くするように活動を行っていました。

すでにその会社を辞めて大分経ちますが、現在はどのように活動しているかは分かりません。

人手不足が叫ばれる時代となりました。

売り手市場ですので、大企業から順番に採用していくので、中堅、中小企業には学生が採用しずらくなっています。

今後は、人が集まらないことによる会社の倒産や廃業も増えてくると思っています。

入社した社員をしっかり育成していく仕組み作りが大事だと感じています。

40歳の転職の考え方

今までいた会社は、総務の仕事から製造現場の責任者へと変更となりました。

38歳の時に、総務から製造現場に移り、まずはその現場で実際にものづくりをすることになりました。

勤務する工場も自宅から20キロ程度離れた所となりました。

私の考えでは、しばらく製造現場に配置転換されるが、いずれはまた総務に戻ってこれると思っていました。

その現場では、エプソンのプリンターヘッドのユニットを組み立てる仕事でした。

プリンターヘッドのレーザーが飛ぶ部分のピント合わせが最初の仕事となりました。

治具の機械を操作して、画面を見ながら焦点を合わせていきます。

人間が手作業でやる作業で、これが意外と難しく、隣で同じ作業をしてをいる女性はすいすいとやっているので、私はほとんどできませんでした。

1か月」ほどやって、やっと隣の女性の80%程度までできるレベルまでになりました。

その会社で現場作業は、実習も含めてやったことがなく、現場作業者はこんなことを考えて」いるんだと実感しました。

休憩時間などは、食堂で他の従業員と雑談をして過ごしていました。

その工場(40人ほど在籍していました)では、日産」どのくらい組み立てているかもよく分かっていませんでした。

私と隣の女性がやっている作業が、頭出しの作業なので(一番最初の工程)、およそいくつぐらいの製品が流れているかは分かっていました。

私たちより後ろの工程は、ベルトコンベヤーで流していました。

最後の行程の方で、実機に製品である」プリンターヘッドをセットして、実際にA4用紙に印刷してチェックを目視で行っていました。

白黒印刷のページプリンターなので、テストチャートを基に、印刷具合を確認していました。

一番最後の工程が、コンテナに」梱包して取引先に納品となっていました。

1年その工場で現場作業をし、その後、自宅近くの工場に移りました。

現場作業も一緒に仕事をしていた従業員とも慣れてきたので、今度は1つのラインの責任者を任されることになりました。

20人ほどの従業員で構成されており、1時間でどのくらいの製本が流れているかストップウォッチを持って、各作業者のタイムを計ったりしていました。

前の工程がトラブったりすると、後ろの作業者が遊んでしまいますので、それの対応も私の仕事となりました。

作業者は、ほぼ女性の作業者でした。

そのような経験が、今の社会保険労務士事務所の全体的な仕事の取り回しで役に立っています。

仕事の配分の仕方、どのような業務がネックになっており、それを誰がフォローするかは、私の得意とするところです。

その6か月後に、また工場を移ることになり、2階建ての工場の1階部分の工程全体を任されることになりました。

今度は、50人程度の作業者の責任者ですので、毎日の生産数の管理、従業員の勤怠管理、他のスタッフを使ってやっていくことになりました。

ある程度、完成在庫を持っていますが、取引先のラインを止めるわけにはいきませんので、製品の毎日の完成数には気を使わざるを得ませんでした。

そんな中、妹が嫁いだ先のご主人の弟さんが交通事故で亡くなってしまいました。

私の母も1年前に交通事故で亡くなっており、母親代わりにお葬式に参列をさせていただきました。

その時に、自分のやりたい仕事をやっていこうと決意しました。

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社会保険労務士の受験勉強

40歳になってからの社会保険労務士の受験勉強は、最初は手探りの状態でした。

しばらくの間は、毎週日曜日の通学講座があるので、その科目の復習をするようにしました。

労働基準法や労災保険法などは、一回も勉強したことがなく、大学で法学部出身の人は有利だなと思いました。

講師の先生が、ここは重要です、と言われた個所はノートに書き写しをしました。

まず森を見て、その後木を見て、枝葉は一番最後です、と言われていました。

なので、重要な箇所だけ最初は覚えるようにしました。

単元ごとの簡単な問題集は、ミニテストがある前に一通りやりました。

サラリーマンと違って、保険代理店として独立したので、時間はたっぷりとありました。

勉強する習慣を身に付けるように最初はそのことを意識しました。

朝起きてから、食事をして、犬の散歩をした後に、自分の部屋に行って、社会保険労務士の勉強に取り掛かりました。

それと併せて、毎日何時間勉強をしたかを記録に取ることにしました。

ちまたでは、社会保険労務士試験は1000時間勉強すれば、合格できると言われていましたので、今から8か月かけてやることにしました。

勉強する順番も講師の先生が教えてくれる順番に設定をしました。

勉強する習慣も2か月程経ちましたら身に付いてきました。

何としても合格したいという気持ちが強く、社会保険労務士の資格を取れば、仕事が取れるとかはまだ考えていませんでした。

講師の先生が、「社会保険労務士試験に合格すればあなたの世界が変わる」という言葉を信じて頑張りました。

テキストの講義が一通り終わった後は、答案練習のコースを受講することにしました。

各学科の答案練習を毎週日曜日に開かれ、科目単位のテストが行われました。

テストが終わった後に、問題ごとに講師の先生が答えについて解説をしてくれました。

この答案練習は、学科んもコースを取った人と昨年受験したが不合格となった人が参加しており、100人ぐらいの方が受講していました。

2回目の日に、1回目の答案練習の成績一覧表が配られました。

私の成績は、トップクラスではなく、10番から15番ぐらいの成績となっていました。

私よりもできる人が何人もいるんだなと思いました。

講師の先生も、残り3か月なので、過去問題をしっかりやってくださいと言われました。

過去5年間の問題を、自宅や図書館などに行って一生懸命解いていきました。

資格試験においては、過去問題を何回も解くのが大事だと実感しました。

それと併せて、記憶術の本を購入し、大事な数字を記憶するようにしました。

例えば、頭の中に雇用保険の給付日数の表が、思い浮かぶようにしました。

試験の1か月前に、模擬試験も受けてみました。

大勢の人が集まっての模擬試験なので、本番の試験の雰囲気を味わうにもちょうど良かったです。

試験結果は、何とか合格ラインの点数が取れましたが、成績順位は3000人ほどの受験生の64番目という結果でした。

答案練習も模擬試験も合格ラインでしたので、本番の試験は合格ると思ってあした。

試験会場は、とても大勢の人がおり、いくつもの教室に分かれて受験となっていました。

一つの机に3人掛けで座り、びっしりの状態でした。

私の受検した教室は、150人ほどの受験生があり、合格率は7%ぐらいでしたので、10人合格し、残りの140人は不合格という厳しい試験であったのを後で知りました。

損害保険の研修生で一人前になりたいと思っていました

損害保険の研修生をやっていたころは、3年でなんとしてでも独立してこの仕事をやっていきたいと思っていました。

最初の1年目、2年目はそれぞれの時期にノルマの売上があり、それを達成しないと退職になってしまいます。

最初の3か月は、ノルマはそう高くはありませんでしたが、初めての保険の営業でしたので必死でした。

指導社員が付いてくれて、どのように訪問をすればいいか指導をしてくれました。

でも実際にお客様のところに訪問して契約を取ってくるのは私なのです。

前の仕事には戻らないと心に決めてスタートしたので、まずは親戚を回って契約をお願いしました。

損害保険の契約は1年ごとなので、満期の時期がこないと、私の契約に切り替えてくれません。

いつ頃が満期更改時期かを探り出したりするのが営業活動となりました。

すぐに自動車保険や火災保険の証券を見せてくれる人もいれば、なかなか情報を教えてくれない人も大勢いました。

保険の営業は難しいですね。

お客様のためになる提案をしても、契約ににういては今までの代理店とのしがらみがあって契約を私に替えにくいという人も大勢いました。

2年目は、1年目で収集した自動車保険や火災保険の満期情報を基に契約の切り替えをしれくれる人が増えていきました。

でも2年目の後半の最後のノルマが達成出来てからは、訪問する先が見えてこなくなりました。

1週間のうち、2,3回は叔母の家に行っては、叔母さんと叔父さんの話しを聞いたりしていました。

3年目はノルマがなくなりましたので、今までの契約に、いかにして上積みをして独立するかが目標となりました。

研修生と言えども、どのように契約を取ってくりかを1人で考えないといけないのです。

3年目の成績は、あまり上積みはあ出来ませんでした。

3年目の夏からは、生命保険の販売もできるようになりました。

会社は、生命保険の販売に力を入れており、研修生の私たちにも、生命保険の契約を取ってくるように発破をかけてきました。

生命保険の契約は、大きな契約となります。

生命保険の仕組みなどを勉強しましたが、独立するまでに3人の契約しか取れませんでした。

生命保険の契約をたくさん出来る人は、すごいと今でも思っています。

労災保険申請の仕事はどうか

労災保険申請の仕事は、平成17年ごろから始めました。

行政書士でも交通事故の自賠責保険などの申請や異議申し立ての仕事をやっていて、その交通事故が通勤災害や業務災害の場合の労災保険申請を手掛けていました。

ほとんどが相手がある交通事故の労災保険の申請です。

この分野を専門として手掛けている社会保険労務士の人はあまりいなかったので、一つずつ依頼があった仕事を丁寧にやっていました。

通常の社会保険労務士の手続き業務や給与計算も並行してやっていましたが、一人の職員の人に専門でやってもらっていました。

その人も入社して5年目で社会保険労務士の試験に合格し、社会保険労務士の登録をして私の事務所でそのまま勤務してくれました。

平成17年から2年間ぐらいは、損害保険会社の第三者行為災害届の作成業務がリサーチ会社経由で来ました。

第三者行為災害届の作成は、労災保険用もあれば、健康保険用もありました。

1年間で2002件ほどの書類作成をし、第三者行為災害届については、いろいろなケースを勉強させていただきました。

一つの仕事を集中してやるとその仕事に精通できることをそこで学びました。

また、最初は多くの時間がかかっていましたが、1年経った頃は最初の頃と比べると、4分の1ぐらいの時間で作成できるようになりました。

さて、本題の労災保険申請の仕事についてです。

行政書士の交通事故の自賠責保険申請などの仕事もホームページを作成し、Yahoo登録ができるようになると、少しずつ問い合わせがくるようになりました。

その中には、通勤災害の交通事故の相談もいくつかありました。

交通事故の労災保険の申請で、相手がある場合は、必ず第三者行為災害届を作成して労働基準監督署に提出しなければなりません。

相談でお問合せのお客様もこの第三者行為災害届の作成で困っている人が多くいました。

私の事務所は、第三者行為災害届の作成は、得意中の得意でしたので、そこことでお客様の信頼を得ることができました。

また、労災保険と自賠責保険の障害の等級認定は、ほぼ同じ基準となっています。

通勤災害などで障害が残った場合の障害給付の申請は、少しずつ実績を積んでいきました。

何か一つでも得意な仕事があると、それを切り口に他の仕事への展開ができることを知りました。

平成17年に手掛けた脊髄損傷を負った方の仕事が、一つのエポックメイキングなことだと思っています。

オートバイで会社の勤務を終えて自宅に向かっていく時に、自動車と衝突して負傷した人のご家族からの相談でした。

その方のお兄さんから相談があり、一緒に労災保険の手続きをしていきことになりました。

通勤途中の交通事故だったのですが、道路が工事中だったので迂回した場所での事故でした。

お兄さんは、労働基準監督署に相談に行ったのですが、「通勤経路を逸脱している」という返事のため、一度は申請を諦めておられました。

私の事務所でも障害等級が1級になる案件は初めてでした。

私の事務所で、今回の通勤経路は逸脱ではなく、工事による合理的な迂回であることを、地図の上で経路を説明して、労働基準監督署が通勤災害であることを認定してくれました。

この時に、どんな時でも諦めずに申請をすれば、道が開けることがあることを実感しました。

その方は今はどうされているでしょうか。

あれから18年経ちました。

私も一生懸命生きてきましたが、少しは社会のお役に立てる仕事ができているでしょうか。

労災保険申請は、現在もう一人の社会保険労務士の方が専門でやっています。

何事も一つのことを長く続けてやっていくことは大事なことだと思っています。

通勤災害の労災保険申請は、自動車保険とも関係しています。

第三者行為災害届を提出するのは、労災保険と自動車保険(自賠責保険)の二つの保険関係を調整するために提出する書類なのです。

ここで初めて、今までの損害保険代理店での自動車保険の知識と第三者行為災害届の知識が必要になってくるのです。

損害保険代理店を7年やってきたことが、ここで再び役にたってきました。

人生不思議なものですね。

また、第三者行為災害届を大量に作成してきたのも無駄にはなっていませんでした。

現在では、もう一人の社会保険労務士の方が年間50件ほど労災保険申請をしています。

平成17年から数えると、累計900件ほどとなっています。

私の仕事は、労災保険の審査請求の仕事を専門にやっています。

審査請求とは、障害申請の等級に不満がある場合や、不支給になった場合の不服申し立て制度です。

社会保険労務士事務所としては、労災保険申請を専門に手掛けているところは、ほとんどないので、それが強みとなっています。

労災保険申請で障害の申請に当たっては、けがの医学的な知識が必要となってきます。

お客様の依頼に応じて、骨折ならば骨折の医学的知識を勉強するようにしています。

骨折でも、治りやすいものもあれば、なかなか治らなくて、重い障害が残るものもあります。

それらの知識を活用して、お客様との相談にあたっています。

労災保険申請の思い出

今まで私が申請してきた労災保険申請で覚えているものを書いてみます。

もう一人の社会保険労務士の方と一緒に900件近く申請をしてきました。

私は、そのうちの5%程度を申請してきました。

まずよく覚えているのが、パワハラによるうつ病による労災保険申請です。

この申請は、死亡された方のご遺族の方が弁護士先生経由でお話がありました。

詳細は書くことができませんが、結論だけを言うと労災認定されました。

パワハラによる労災保険申請で認定された私にとっては初めてのことでした。

申請で一番困ったのは、死亡診断書の入手です。

死亡された時期から時間が経っていたので、法務局で入手しようとしたのですが、ご遺族からの委任状では取ることができませんでした。

もっと公的な書類が欲しい、ということで、池袋労働基準監督署の担当官と連絡を取り、労働基準監督署からの指示書を出してもらいました。

労災保険の審査請求も何件か手がけました。

お客様の要望で、「労働者性」を認定してもらうことをやりました。

トラックの運転をしていた人が、荷物を運ぶトレーラー車を横浜港まで取りに行く時に、本牧ふ頭でスリップして横倒しになり負傷した労災事故です。

問題となったのは、その仕事が初仕事であり、仕事の指示が電話であったことと、その仕事をいくらで行うかの労働契約書が無いことでした。

その方は、大学を卒業した後、有名な電機会社に勤めていたのですが、途中で退職してトラックの運転手をやっていました。

トラックの運転手もトレーラーの運転を長年やっていて、今回の事故はトラクターヘッドっを運転していての事故でした。

トラクターヘッドは、後ろのトレーラーと連結して運転する者ですが、トラクターヘッド単体は、運転するのが難しいものなんだそうです。

私は、その方と千葉駅で落ち合って、水戸市にある茨城労働局でのヒヤリングに行きました。

現在では、フリーランスの労災特別加入の枠を広げる動きになっていますが、その当時はそのような考えはなく、審査結果は「労働者性」が認定されませんでした。

金沢の労働基準監督署まで障害給付の認定に立ち会ったことがあります。

名古屋から特急しらさぎに乗って、金沢駅でその方と落ち合って、日本海側方面にある金沢労働基準監督署まで行きました。

労働基準監督署の担当官におケガの状況をお伝えして、認定となっていきました。

医師の面談は無く、医療照会で認定をすることになり、10級10号の認定となりました。

一下肢の三大関節中の一関節の機能に著しい障害を残すものとなりました。

審査請求では、大津市にある滋賀労働局に意見聴取に立ち会ったこともあります。

東海道線の膳所駅で落ち合って、自動車で滋賀労働局の労災補償課まで行きました。

その方の父親が、通勤途中の自動車事故で高次脳機能障害となり、労災保険の等級が5級と認定されました。

実際には、日常生活において、母親が随時介助しているので、3級相当ではないかという訴えの審査請求をしました。

おケガをした本人を連れて行くのは、連れていることを説得するのも難航してしまったので、母親と息子さんと私の3名で行きました。

申立書も作成し、おケガをした人の状態を書面にして提出しましたが、意見聴取のみにとどまり、5級そのままとなりました。

今から3年前にも、やはり通勤途中の交通事故で高次脳機能障害を負ってしまった方の等級変更の審査請求をしました。

今度は、関東の方でした。

この時は、障害給付の申請の認定の時も立ち会いました。

労働基準監督署の担当官が1名でその方の自宅まで来ていただき、聞取りをして帰っていきました。

その担当官が言うには、嘱託医に確認して今月末には認定結果をお知らせする予定と言って帰っていきました。

その担当官は、4月に中央労働基準監督署に転勤する予定と言っていました。

なかなか認定結果がでず、7月になってやっと認定結果が出てきました。

認定結果は、自賠責保険と一緒の7級になりました。

日常生活において、奥様の介助をある程度受けていましたので、せめて5級は欲しいと言っていました。

そこで審査請求をすることになり、前回の審査請求の反省を踏まえて、主治医の先生に意見書を書いてもらう作戦を練りました。

国土地理院の近くにある病院までご家族と一緒に行って、主治医の先生に意見書作成の依頼に立ち会いました。

主治医の先生は、私だけを最初に診察室に招き入れてくれ、今回の申請の趣旨を聞いてくれました。

その後、私は退出して、本人とご家族が診察室に入っていきました。

先生は、4つの能力について、簡単な質問を本人にして、意見書をその場で作成してくれました。

※4つの能力・・・意思疎通能力、問題解決能力、持続力・持久力、社会適合性

審査請求で等級の変更を勝ち取るには、医師の証明が大事だと常々思っていました。

今回は、主治医の先生が本人を診察しながら医師の証明を書いてkれたのが良かったのだと思っています。

審査請求で提出された医師の証明書は、労働局の顧問医の審査を受けて、7級から5級へと等級が変更となりました。

兵庫県の姫路労働基準監督署まで障害の認定に行ったことがあります。

私の記憶がうろ覚えなので、何級になったか忘れてしまいましたが、この時は生まれて初めて顧問医の先生が認定室に私を呼んでくれて、今回の認定の経緯についてお話をしてくれました。

たしか神戸で開業医をされている先生でした。

高次脳機能障害の障害の認定では、おケガを負った(病気の場合もありますが)と労働基準監督署の担当官と一緒に面談する場が設けられています。

私は、今までに3回立会を経験ました。

日常生活状況という書面を事前にご家族の方が記入してもらい、それについて1項目ずつ労働基準監督署の担当官が確認をします。

名古屋北労働基準監督署と岡崎労働基準監督署で立会をしました。
もう1件は、どこの監督署か忘れてしまいました。

ご家族の人達もはじめての経験なので、上がってしまいますので、社会保険労務士の私がいると安心されていました。

高次脳機能障害の労災申請の聞き取りについては、私が担当となっていました。

というのは、私の母が自転車に乗って、横断歩道を青信号で渡っている時に、自動車と衝突して「頭を強く打って」翌日亡くなったからです。

頭部外傷で高次脳医機能障害を負った方の労災申請は、私の専門となりました。

頭部外傷の高次脳機能障害の本も10冊以上読んで勉強をしました。

そして、労災保険の認定基準もしっかりマスターしました。

最近は、過重労働による脳梗塞と心疾患の労災保険の申請もするようになりました。

三田労働基準監督署の認定も立ち会ったことがあります。

膝の関節の可動域制限がかなりある方の労災認定です。

労災保険の障害認定を先にして、その後、自賠責保険の後遺障害認定という手順を踏むことを希望されていました。

労災保険の診断書では、膝の関節可動域測定の数値は、10級が少し厳しい感じで記載されていました。

関節の可動域測定は、「他動」、いわゆる先生が手を添えて抑えながら角度を測っていきます。

人間が測定することなので、5度単位で数値を記入するのですが、少し曖昧になります。

また、その日の本人の体調もあるので、5度くらいの数字は変わることもあります。

それと併せて、反対側の膝の関節可動域と比べて何%かということになっていますので、反対側の膝の可動域がすごく曲がると、相対的に比率が変わってきます。

そのあたりも本人にアドバイスをして顧問医の先生の可動域測定に臨んでもらっています。

先生によっては、分度器を使わず目分量で計測される方もおります。

その方は、10級10号の認定となり、目指す等級になったと言っていました。

後日、その方にお聞きしたところ、自賠責保険の後遺障害の等級は12級7号になったそうです。

自賠責保険の等級の認定は、後遺障害診断書に記載されている「数値」で判断されるので、主治医の先生が計測した書類で決定されてしまいます。

行政書士事務所をやっていた頃は、自賠責保険の異議申し立ての業務もやっていました。

一宮労働基準監督署で足の骨折をした方の等級認定に立ち会ったことがあります。

その方は、脛骨と腓骨を骨折しており、等級認定に立ち会った時、すでに嘱託医の確認も終わり、待合のソファーに一緒に座って私と雑談をしていました。

その時に、足の骨折をした時の治療の経緯を聞いている時、骨盤の腸骨を採取して足の骨折の治療に使ったと言われました。

そこで、急いでそのことを労働基準監督署の担当官にお話ししたところ、もう一度嘱託医の先生が骨盤の腸骨の個所を確認してれて、足の関節可動域で12級と骨盤の変形で12級、併合して11級という認定をしてくれました。

主治医の先生の診断書には、骨盤の腸骨採取については書かれてなく、私が機転を利かして労働基準監督署の担当官にお伝えして、等級が1級上がりました。

労災保険の審査請求は、なかなか申請が通りにくく、他にはあと2件申請が通ったことがあります。

現在も審査請求をしている案件があり、どのようにすれば認められるか工夫しながら進めています。

労災保険の初回の申請は、私の事務所のもう一人の社会保険労務士の方が進めており、想定される等級がほぼ認定されている状況です。

私の仕事である審査請求は、初回の障害申請を本人が」やって思った通りの等級が取れない場合にネット経由又は弁護士先生経由でご依頼がいます。

アフターケアの申請は、もう一人の社会保険労務士んの方がやっており、これも順調に申請が通っています。

労災保険の申請に置いて、パワハラやセクハラなどで精神疾患になった方の申請も手掛けていました。

こちらの病気の方は、ここ5年前から手掛けており、パワハラは比較的認定が難しい状況です。

セクハラについては、認定を2件取ったことがあります。

現在は、労災保険のパワハラとセクハラによる精神疾患の申請のお手伝いは中断しています。

ルートセールスの仕事はどうか

ルートセールスの仕事を1年6か月やったことがあります。

食品の営業なので、また皆が食べるものであり、値段も高いものではないので、食品を売るというよりは、取引先のスーパーに配達して、陳列する仕事が主な仕事となっています。

直接、お客様と話をして売るわけではないので、このルートセールスで困ったことはありません。

ただ、勤務時間が少し早いので慣れるまでが大変でした。

終了時刻は、逆に早いので、それは楽でした。

お店の担当者と簡単な商談をすることはありましたが、特にルートが敷かれているので、込み入った話しをする必要はありませんでした。

自動車を運転する仕事なので、安全運転には気を使いました。

1年6か月やって、次の転職の話しを知人が母親経由で話しを持っててくれましたので、そちらに転職をしました。

食品のルートセールスに向いている人は、人と話しをするのが好きで、自動車の運転で安全運転が出来る人です。


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